「手造りの美味しさ」で幸せな時間のお手伝いが出来たら

生い立ち

日本生まれ(大阪市港区)でしたが、3歳のときに「大阪大空襲」があり住んでいた家が無くなったので韓国の済州島に疎開し、その後釜山に移り住みました。
祖母のお通夜の時におばさんから当時の話しを聞く機会があり、港区からバイクにつけたリヤカーに親族で乗り、大阪の街が燃えているなか東大阪市まで走り抜けた話は凄く印象に残ってます。母は3歳なので、ほとんど覚えていないそうですが・・・。凄い時代です。
韓国に戻ってからは17歳まで釜山で過ごし、毎年のようにキムチ作り(キムジャン)を手伝っていたのでキムチ作りの基礎をこの時に覚えました。

日本に再来日

日本に親族が残っていたこともあり、17歳で再度日本に戻ります。
日本語が全く喋れないので苦労しましたが、周りの人に助けられ工場で働いたりするなど仕事はたくさん出来ました。
当時は、高度経済成長期で住み込みの仕事なども多く、仕事は探せば何でもある時代でした。当時の話しを聞くと、週休2日どころか隔週の日曜日だけ休みという今では考えられないくらい働いていたそうです。若かりし頃はキムチ以外の仕事をしていた時代です。
父とは日本で見合いで知り合い結婚し、この時に2人の兄と姉を産みます。

キムチ屋さんを始める

祖母がキムチを台車に乗せ行商から始めたキムチ屋さんが好評で1970年に生野区田島にて店舗を構えることができました。
母は1976年東成区から生野区中川東に引っ越すことが決まります。その家が万代百貨店(現在のスーパー万代)の横という立地もあり、キムチ屋さんを開くことにしました。当初は祖母の店で作ったキムチを仕入れて販売する形でしたが、次第に自分でも漬けるようになり数年後には完全に自分で作りだします。
元々料理好きで、色んな人に美味しいものを食べさせてあげたいという想いが強く祖母の味からアレンジを加えていきました。
写真は1990年。唯一残っていた昔のお店写真で、黄さんの手造りキムチ高麗食品の貴重な資料です。

息子たちへバトンタッチ

キムチ屋さんからスーパーへキムチを卸すキムチメーカーへと変わっていくなかで黄3兄弟へとバトンを渡していくことになります。

経営・経理は長男、営業は次男、製造は三男。性格も得意分野も見事にバラバラ。でも、深いところでつながっている三人が会社を盛り立てております。
母(黄さんの祖母)が始めたキムチ屋さんを自分も経由し、息子たちが兄弟の力を合わせて頑張っているのが嬉しくてたまらないらしいです(^^♪
また、お客さんの中でも親子3代にわたって買いに来てくれている人たちがいてて、それもほんま嬉しいわ~!!とも言ってました。

母の想い

「お母さんにとってキムチとは・・・」という質問に、一番好きなもん!!という答えに母の性格が滲みでてます。
若い時から、金銭的にも時間的にもゆとりのある生活はできていませんでしたが、食事の時間は大切にしていました。
「美味しいもん食べて笑ってたら幸せやで!!」も口癖で、とにかく食べて笑ってという食卓を目指していた気がします。
今の会社の理念「笑顔を作る」も、「手造りの美味しさ」で幸せな時間のお手伝いが出来たらという母の想いを基礎にしています。